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「大室☆寅之助。」さんのコメント こんにちは。質問ですが、シャカの教えとはそもそも何でしょうか?私見ですが、北伝仏教は伝播する過程で変容し、本来の姿から外れているのではと疑念を持っています。>我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。 と、おっしゃっていますが、宗教というより日本の仏教は政治そのものに見えます。 管理人(武田勝道)からのお返事 書込、ありがとうございます。 まず「我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。」は、宗政について述べたものです。国(俗)の政治についての記述ではありません。もっとも、鎮護国家の仏教として伝来受容されたので、ご指摘のような「日本の仏教は政治そのもの」の印象はあると思います。しかし、宗教は内心というのは、明治時代のキリスト教徒による非常に意図的洗脳であると思います。むしろ、世界的には、宗教は人間存在を包括的に規制するのが本来的であり、すなわち、政治を含む生活全部です。イスラムやキリスト教に顕著です。それと、宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。 お釈迦様の教えは何かと大きな質問をされても非常に困惑しますが、私は、お釈迦様は寂静をお教えくださったと味わっています。さとりの向こうは、死の向こうは、彼岸は、シーンとして何もなく静かなのではないでしょうか。真如に入海一味です。 伝播・変容の問題ですが、戒律にしても、暑い地方と寒い地方で同じであることはできません。人が他の人を理解するとき、自分の個性が認められないのでしょうか。お釈迦様の説法は、対機説法であったといわれています。そもそも、原理主義的であっても、2600年前のインドのお釈迦様と現代の日本人が(インド人ですら)同じであることはできないでしょう。キリスト教も、キリストの考えではなく、パウロの考えであり、パウロ教であるといわれています。そして、パウロのキリスト教と現代のキリスト教が同じではないでしょう。 言葉の問題、音写か意訳かにはじまる翻訳の問題、受け手の自由や能力の問題は、人が人を理解する、しかも言葉を超えて理解するとき重要です。「原理主義」といわれるものは、形式的すぎるのではないでしょうか。親鸞聖人の教えは、娑婆で命を燃焼する教えです。燃え尽きたとき往生する。私には、お釈迦様の教えの究極の姿に思えます。 【コメントは制限字数があり分割されるので、一括してアップしました。】 |
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大変に丁寧なお答えありがとうございます。>宗教は、一人のみを対象とするのか、集団を対象とするのか、古くて新しい問題があります。・・最近の社会・政治に関する様々な現象を見ておりますと、仏教界に期待したいことは沢山あります。私としては、小乗・大乗といった壁を超えた原初的な仏陀の教えを啓蒙して頂きたいと思います。 |
大室☆寅之助。 2006/11/11 17:31 |
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